『Apl.de.ap』世界で最も活躍するフィリピン人アーティスト!!

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ラップシンガー、ドラマー、プロデューサー及びBlack Eyed Peas(ブラック・アイド・ピーズ)のメンバーとしてマルチに活躍するApl.de.ap(アップル・デ・アップ)について紹介します!!
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1988年、『Tribal Nation』でwill.i.am(ウィル・アイ・アム)と共に活動。
1989年、『Atban Klann』の結成に加わりますが、1995年レーベル社長「Eazy-E」の死去により事実上解散。Taboo(タブー)を加えて『Black Eyed Peas』として活動を開始します。
アップルの名前の由来は、本名のAllan Pineda Lindoの頭文字をとったものです。
2005年に、フィリピン系アメリカン・アーティストを応援するレーベル『JEEPNEY MUSIC』を立ち上げ、フィリピン音楽の宣伝をしたいとアップルは話しています。
プロフィール
【名前】Apl.de.ap(アップル・デ・アップ)
【本名】Allan Pineda Lindo(アラン・ピネダ・リンドー)
【出身地】フィリピン、パンパンガ州サパンバト
【誕生日】1974年11月28日
【ルーツ】フィリピン系アフリカン・アメリカン
家族構成
父親はクラーク空軍基地に配属されていたアメリカ軍人の黒人。母親はフィリピン人。 アップルが生まれる前に両親は離婚しています。
4人の兄弟と2人の姉妹がいるが、弟のArnelは自殺により他界。また、2009年2月3日、腹違いの一番下の弟、ジョベン・ピネダ・ディアラ氏も21歳という若さで何者かによって銃殺されています。
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「The Apl Song」
3rdアルバム「Elephunk(エレファンク)」の12曲目に収録されている「The Apl Song」は、アップルの自伝的歌詞になっています。
家が貧しかったので、14歳の時にパール・バック基金を通してアメリカ人弁護士、ジョー・ハッジェンズの養子になり、故郷フィリピンからアメリカへたった1人で移住します。
生まれつき”先天性眼震症”という、自分の意思とは関係なく眼球が動く病気を患っており、この病気を治すためアメリカに行く予定で、 アップルが11歳の頃から母親と養子について話し合っていたそうです。
ジョー・ハッジェンズは、アップルの目の治療とより良い教育を受けさせ、 選択肢の多い未来の手伝いを望んでいました。
アップルは単身渡米。ハッジェンズと一緒に住み、 ロサンジェルスにあるジョン・マーシャル・ハイスクールに通い、 その後2年間はシカゴにあるキュリー・ハイスクールに通いました。
ロサンジェルスにいた時、ハッジェンズのルームメイトの甥にあたるウィルに出会いました。
母国語はタガログ語で、方言がパンパンガ語。 渡米した頃は英語が全く話せませんでしたが、一生懸命勉強をしたそうで、 タブーは「アップルは俺より英単語を知っている」と言っています。
「Take Me To The Philippines」 フィリピンでの活動
生まれ故郷のフィリピンで、アップルの事を知らない人はいないほどのスーパースター。BEPがフィリピンでライブを行った際、フィリピンの大統領と軍隊が最前列で鑑賞するくらいの有名人です。
フィリピンのリゾート開発やチャリティーなど、かなり積極的に活動しています。
2009年にはフィリピン政府の依頼で「Take Me To The Philippines」のMTVを制作するなどの活動がありました。
まとめ
Apl.de.ap(アップル・デ・アップ)とは。。。
・ヒップホップグループ…Black Eyed Peas(ブラック・アイド・ピーズ)のメンバー
・フィリピン系アフリカン・アメリカ人
・14歳の時、フィリピンから単身渡米
・BEPとしての活動の傍ら、フィリピンのリゾート開発やチャリティーに参加
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